街道をゆく35・栃の実

『街道をゆく35』はオランダです。

 

残念ながら苔(コケ)は登場しません。

 

オランダの風景といえば

風車とチューリップが思いうかびますが

チューリップの原産地はオランダ

ではなくトルコなのだそうです。

 

十七世紀初頭

フランスの植物学者がライデン大学に

赴任するときに持ち込んだのが

オランダでのチューリップ園芸

そして球根産業の始まりのようですね。

 

ライデンにはシーボルトハウスや

シーボルトコレクションを所蔵する

国立民族学博物館があります。

 

シーボルトは医師でもあり

博物学者でもありました。

 

シーボルトは日本で収集した

植物や植物標本一万点以上を

オランダに持ち帰ったそうです。

 

そのなかにはモミジ・カエデやシダ類

それにきっとコケ植物もあったでしょう。

 

「シーボルトの栃の実」より

「園内の芝生に、

大きな日本のトチ(栃)の木があって、

(中略)

茂るあまり、枝や葉が地面に垂れてた。

実がたくさん地面にころがっていて」

 

園内というのはライデン大学植物園

シーボルトが日本から持ち帰ったという

トチの大樹なのだそうです。

 

私が小学生の頃

神社にだったかトチの木があって

その実をひろって笛を作りました。

 

トチの実の真ん中にクギで穴をあけて

実の中身をほじくりだせばできあがり。

簡単でしたね。

 

 

今週ひさしぶりに雨が降って

涼しい日がありほっとしました。

来週は八月ですね。

 

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
35・オランダ紀行

街道をゆく34・石も苔も

『街道をゆく34』は大徳寺と

中津・宇佐です。

 

「大徳寺散歩」になんと四か所

苔(コケ)が登場します。

 

まずひとつめの苔。

 

「大徳寺散歩 念仏と禅」より

「石もも土も樹も、みな清らかで、

これは臨済禅とふかくむすびついている。」

 

大慈院の描写の一部です。

 

京都の紫野にある大徳寺は

鎌倉時代末期に大燈国師が開創した

臨済宗の大本山です。

 

応仁の乱で荒廃しましたが

あの一休和尚が復興し

江戸初期には沢庵和尚がいたそうです。

 

ふたつめの苔。

 

「大徳寺散歩 松柏の志」より

「その間に松などがあしらわれ、

また数百年、掃ききよめられることによって

滑ったようになっている石畳と、

露に息づいているの敷物が、

きよらかさの脇役をなしている。」

 

大徳寺全景の描写からです。

 

その間とは三門、仏殿、法堂、本坊が

南北に一線にならんでいるその間。

 

みっつめの苔。

 

「大徳寺散歩 風飡水宿の譜」より

「門を入り、の小径をつたって

やがて屋内に入ると」

 

こちらは高桐院です。

 

大徳寺の本坊は一般には非公開で

塔頭も非公開のところが多いのですが

高桐院は一般公開されています。

 

ちなみに

風飡水宿(ふうそんすいしゅく)とは

「風を食い、水のほとりで寝た」

という意味で

一休さんが大燈国師のことを書いた

詩のなかにある言葉のようです。

 

そしてよっつめの苔。

 

「大徳寺散歩 肥後椿」より

「火袋の上の笠はむしている。」

 

石灯籠の描写です。

 

大徳寺は桃山時代以来

千利休など茶人との関係も深く

茶道の本山としても知られています。

 

高桐院には千利休に師事した

細川三斎(忠興)の墓があります。

 

利休が天下一という銘をつけたという

石灯籠を墓石にしてあるそうです。

 

禅寺に苔が似合いますね。

 

 

梅雨入りしてから

あまり雨が降っていません。

どうやら今年はカラ梅雨のようです。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
34・大徳寺散歩、中津・宇佐のみち

街道をゆく33・苔の下

『街道をゆく33』は奥州の白河と会津

そして東京の赤坂です。

 

「奥州白河・会津のみち」に二か所

苔(コケ)が書かれています。

 

まずひとつめの苔。

 

「奥州白河・会津のみち 二つの関のあと」

「小ぶりな空間のなかに歴史が

の下にもぐりこんで息づいていて」

 

歌枕としても名だたる白河の関ですが

その跡の場所がわからなくなっていた

のだそうです。

 

江戸後期

白河藩主の松平定信が考証を行い

白河神社が建つ場所が

白河の関跡であると断定しました。

 

その後

昭和の発掘調査の結果

昭和41年に「白河関跡」として

国の史跡に指定されました。

 

司馬さん一行がまず訪れたのは

江戸時代にずっとつかわれていた

もうひとつの関跡のほうです。

 

「境の明神」とよばれるこの場所は

陸奥(白河市)と関東(栃木県那須町)の

まさに境にあるようです。

 

江戸時代

参勤交代の大名行列がとおったこの道は

杉木立にかこまれ蒼古とした景観を

色濃く残しているいい場所のようです。

 

ちなみに司馬さん一行は

芭蕉と曾良もそうだったように

この後に白河の関跡に向かいました。

 

そしてふたつめの苔。

 

「奥州白河・会津のみち 関川寺」

「最古参格の宗広の鎌倉ふうの墓が、

宗広その人のように

何を語るわけでもなく、

むしてうずくまっているのが、

印象的だった。」

 

結城宗広は鎌倉幕府の御家人であったが

後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると

新田義貞と共に鎌倉幕府を滅ぼした。

 

宗広は最後まで

南朝に忠実な武将であったそうです。

 

 

JR東日本のテレビCMで

吉永小百合さんが苔の観察!

北八ヶ岳の苔の森ですね。

 

昨日今日と雨、五月雨ですね。

明日はまた暑くなりそうです。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
33・奥州白河・会津のみち、赤坂散歩

街道をゆく32・苔やシダ

『街道をゆく32』は阿波と紀ノ川流域。

苔(コケ)やシダ(羊歯)が登場します。

 

まずひとつめの苔。

 

「阿波紀行 地獄の釜」より

「境域には古い墓石が多く、

細川氏のあとの阿波のぬしである

三好氏の墓碑がいくつかむしていた。」

 

境域とは勝瑞城(しょうずいじょう)跡

細川殿の阿波屋形ともいわれた平城跡で

今は国の史跡に指定されているようです。

 

次はコケやシダ。

 

「紀ノ川流域 鶴の渓」より

「天守閣への長い坂をのぼった。

一歩ずつ石垣が楽しめるのがいい。

コケシダがはえ、石垣そのものが

蘚苔類の植物園のようになっている。」

 

和歌山城の古い石垣で

浅野家当主が鶴を放ち飼いしていたという

「鶴の渓(たに)」と呼ばれる一郭。

 

司馬さんお気に入りの場所だそうです。

 

そしてまた苔と羊歯。

 

「紀ノ川流域 森の神々」より

羊歯を装った古槙が

老酋のような威厳をみせている。」

 

「何百年のにまみれた老樹であっても、

季節になればさかんに若葉を吹きだす。」

 

「森の中に、

そういう神々の宮居が、八十余もある。

いずれも小さく、すべてむしている。」

 

この森とは「にちぜんぐう」とよばれる

日前(ひのくま)・國懸(くにかかす)

神宮の境域です。

 

日本で最も歴史のある神社の一つ。

 

司馬さんはこの境域が好きで

和歌山市にくるたびに

ここを訪れたそうです。

 

 

今日は庭の日だとか。

ツツジの花が咲いています。

もうすぐ五月・皐月ですね。

 

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
32・阿波紀行・紀ノ川流域

街道をゆく31・苔モース

『街道をゆく31』はアイルランドの続編。

 

苔(コケ)の記述が三か所ありました。

 

まず一つめ。

 

「ケルト的神秘」より

「そのわずかな土にが、

緑えのぐのように

べっとりと付着している」

「モース」

「ジョン・ライリー氏は近づいてきて、

私のてのひらの中のを指さした。」

 

司馬さん一行のガイド兼ドライバー

であるジョン・ライリー氏が

「moss」と言ったのを

司馬さんは「モース」と書きました。

 

mossはもちろん苔の意味です。

苔にはコケ植物、地衣類のほか

小さなシダ類なども含みます。

 

司馬さんは「べっとりと付着」

と表現されていますので

もしかしたら地衣類かもしれませんね。

 

ちなみに

コケ植物は bryophyte

?ちょっと読めませんね。

地衣類は lichens ですが lichen は

蘚苔や苔と訳されることもあるようです。

 

二つめ。

 

「カラハと葬送曲」より

「要するに、風が運んできたホコリを、

一週間に何日かは降る雨が

それを濡らせて飛ばないようにし、

あとはか草かが生えて、

薄皮まんじゅうの皮のように

表面をかためているだけなのである。」

 

アラン島(諸島)は

「一枚の岩盤でできていて土壌はない」

のだそうです。

 

日本だけでなくアイルランドでも

岩から最初に生えてくるのは

やはり地衣類や蘚苔類などの

いわゆる苔ですね。

 

そして三つめ。

 

「妖精ばなし」より

「妖精の一種族である

ピスキーの食べ物といわれる

黄色い蘚苔のつく森」

 

アイルランドには妖精がいるそうです。

妖精は黄色い苔を食べるのですね。

苔に覆われた森は妖精が似合います。

 

 

昨日は雨。今日は晴れ。

もうすぐ啓蟄(けいちつ)です。

モミジの芽がほんのすこしだけ

ふくらんできたようです。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
31・愛蘭土紀行2

街道をゆく30・鉢植えのシダ

『街道をゆく30』はアイルランドです。

 

イギリスの本島である

グレートブリテン島の

西隣にうかぶ島ですね。

 

苔(コケ)とモミジは登場しませんが

シダ(羊歯)の鉢植えが登場します。

 

「駅舎・空巣」より

「この店の特徴は、

観葉植物の多いことだった。

高い天井にまで鉢植えの羊歯類が

たくさん吊るされている。

(中略)

その羊歯の大きな鉢植えが

爆弾のように落下してきたのである。」

 

司馬さん一行はロンドンから

鉄道でリヴァプールへ移動し

そこから小さな飛行機で

ダブリンへゆきます。

 

この店とは

ロンドンにあるイタリア料理店です。

 

司馬さんは

「ちゃんとした英国式の晩餐はにが手」

なのだそうです。

 

この店でテーブルをかこんで

ロンドンの空巣ばなしを聞いているときに

この事態が起こりました。

 

けが人はいませんでしたが

シダの鉢植えは粉々になりました。

 

ベランダでも鉢植えの置き場所には

注意が必要です。

吊るしているのなら尚更ですね。

 

ちなみにロンドンでは

シダ植物が人気なのかも。

 

 

昨日は雪とみぞれ。

今日は晴れましたが寒いですね。

モミジの寒肥は二月上旬で終わりです。

 

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
30・愛蘭土紀行1

 

街道をゆく29・紅葉

『街道をゆく29』は秋田と飛騨です。

 

期待に反して苔(コケ)とシダは

一度も登場しませんでした。

 

紅葉の描写はありました。

 

「飛騨紀行 飛騨境橋」より

「岩も崖も白い。

急流が山脚の岩肌を

縞模様に彫りきざんだ奇勝で、

まわりの山々はことごとく

紅と黄に染まっている。

この日、十一月五日で、

飛騨まで登ってしまえば

もう紅葉は終わっているだろう

といわれていたのだが、

下流の美濃飛水峡では

まださかりであることがうれしかった。」

 

名勝飛水峡(ひすいきょう)の描写です。

 

司馬さんは

旧分国の美濃と飛騨の国ざかいを

見たいがために岐阜羽島駅から

車で飛騨の国をめざしました。

 

江戸時代、美濃と飛騨の国境は

今の岐阜県下呂市金山町にある

境橋だったのだそうです。

 

残念ながら司馬さんらが

境橋についたころには

すでに暗くなっていました。

 

そしてなんと今では

その境橋を渡って飛騨の国に入る

のではなかったようです。

 

紅葉の名所中山七里(なかやましちり)は

境橋から飛騨川に沿って続くのですが

夜に通過することになってしまいました。

 

司馬さん一行は下呂の宿に泊まります。

 

紅葉の描写はこのあとにもありました。

 

 

今日も朝は冷え込みましたが

日中は三月並みの暖かさです。

明日からは寒さが厳しくなりそうです。

 

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
29・秋田県散歩・飛騨紀行

街道をゆく28・苔と大紅葉

『街道をゆく28』は耽羅(たんら)です。

 

韓国の済州島は

古代、耽羅という国だったとのこと。

 

苔(コケ)と紅葉の記述がありました。

 

まずは苔。

 

「神仙島」より

「ただの地表から、

や草におおわれた

岩の道を淵まで降り、

あらためて見あげると、

淵は岩の柱に

かこまれていることがわかる。」

 

済州島の観光スポットのひとつ

天帝淵の描写のなかに苔が登場。

 

済州島は熔岩流が全島をおおっていて

熔岩の下を伏流水が流れているそうです。

 

苔と熔岩は相性が良いですね。

 

 

そして紅葉と黄葉。

 

「モンゴル帝国の馬」より

「やがて私どものバスは、

紅葉のなかに入った。」

 

大紅葉=だいこうよう、です。

オオモミジではありません。念のため。

 

この日は十月三十一日。

漢拏山の中腹越えの道路

標高690メートルあたりです。

 

木々は黄や紅に

大紅葉していたようですね。

 

司馬さんは

「漢拏山の大いなる黄葉

夕日のなかでみたいと思い」

(俳句「颱風来」より)

十月下旬に出発することに

したのだそうです。

 

 

冬至を過ぎたというのに

今夜は暖かい風が吹いています。

明日までは気温が高いとのこと。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
28・耽羅紀行

街道をゆく27・苔古び

『街道をゆく27』は因幡・伯耆と

檮原街道です。

 

苔(コケ)、羊歯(シダ)、紅葉(モミジ)

に関する記述がありました。

 

まず最初に登場するのはシダ。

 

『因幡・伯耆のみち 人と物と自然』より

「かれは江戸期の人らしく、

年次計画をたてた。

まず砂ふせぎの羊歯垣をつくって、

その内側にクロマツをうえた。」

 

因幡(いなば)は鳥取県の東半分で

西半分が伯耆(ほうき)

鳥取砂丘は因幡になります。

 

「かれ」とは船越作左衛門。

米子の商人でしたが生業をすて

鳥取砂丘への植林事業を

生涯の仕事にした人です。

 

羊歯垣(シダがき)とは

シダ類のウラジロで作った

垣のようですね。

 

次は苔です。

 

『因幡・伯耆のみち しづやしづ』より

「さらには白木が青く古びた

清潔そのものの社殿があったが、

神職も番人もいなかった。」

 

「しづやしづ しづのをだまき・・・」

白拍子の静御前が頼朝の前でうたった

義経を恋い無情を嘆く即興の歌です。

 

倭(しづ)や倭文(しとり)は織物をさし

「しづのをだまき」は

織るための糸をまるめた玉のこと。

 

伯耆の国の一ノ宮だという

機織(はたおり)の神を祀る

倭文(しとり)神社の描写です。

 

司馬さんは倭文ということばから

静御前の歌を連想したそうです。

 

そして紅葉です。

 

『因幡・伯耆のみち 伯耆の鰯売り』より

「あの旅は、

紅葉の見頃を見はからって

行ったのである。」

 

司馬さんが「凄い紅葉」とも書いたのは

伯耆富士とも呼ばれる大山(だいせん)に

昭和三十年ごろに登ったときのこと。

 

山の中腹より上は

「あらゆる種類の落葉樹が

紅や黄に色を変えていた」そうです。

 

「とくに黄がうつくしく」

とも書いていますので

ヤマモミジの黄葉の色

だったのかもしれませんね。

 

最後にもうひとつ苔です。

 

『檮原街道 坂龍飛騰』より

「墓は、樹々の木下闇の中にあって、

までが冷たかった。」

 

檮原(ゆすはら)街道は

脱藩の道ともよばれます。

 

坂本龍馬が同志とともに

土佐(高知県)から伊予(愛媛県)へ

脱藩するときに通った道です。

 

脱藩の日の夜

龍馬らが泊めてもらったのが

檮原の郷士那須家でした。

 

この夜、酒を飲んだ主客四人は

ことごとく非業の最期を遂げました。

その那須家の墓の描写です。

 

 

雪です。

54年ぶりの11月の初雪。

地面が真っ白になるほど積もりました。

小雪は過ぎましたが積雪とは。

まるで雪国のようです。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
27・因幡・伯耆のみち、檮原街道

街道をゆく26・楓(カエデ)

『街道をゆく26』は嵯峨と仙台・石巻。

 

苔(コケ)、シダ、モミジが

たくさん登場すると期待しましたが

楓と苔が一度登場するだけでした。

 

まず楓(カエデ)です。

 

「嵯峨散歩 水尾の村」より

「赤い鳥居のむこうに、

蒼寂びたわらぶきの茶屋があり、

鳥居の手前にも似たような茶屋がある。

鮎を食べさせる家々で、坂といい、

の樹叢といい、なまの景色を舞台にして

上質の演劇ができそうなあたりである。」

 

嵯峨鳥居本(とりいもと)の描写です。

 

このカエデの種類はわかりませんが

タカオモミジもあるでしょうね。

 

モミジと名のつくイロハモミジ

オオモミジ、ヤマモミジは

すべてカエデの仲間です。

 

タカオモミジ(高雄モミジ)は

イロハモミジの別名です。

 

ちなみに「楓」という字は本来

フウという別の植物のことでした。

カエデを表す字は「槭」。

いつのまにかかわってしまったようです。

 

ところが

中国で「三角楓」はトウカエデのこと

葉がフウに似ているのだそうです!?

まぎらわしいですね。

 

 

次は苔です。

 

「仙台・石巻 千載古人の心」より

「ふたりは碑面のをぬぐい、

一字ずつ解読した。」

 

ふたりとは、芭蕉と曾良のこと。

碑は多賀城碑という奈良時代の石碑。

歌枕の「壺の碑(いしぶみ)」として

世に知られるようになったのだそうです。

 

 

昨日は夏日でした。

今日は爽やか秋晴れです。

来週は寒くなりそうだとのこと。

 

『街道をゆく』司馬遼太郎
26・嵯峨散歩、仙台・石巻